肩書きに溺れる
                                                              平成28年5月25日

 ある日、お店の店主はお値打ちに販売しようと思い、一個1,000円で商品を棚に並べていました。しかし、このお値打ちさがなかなかお客さんは理解してくれませんでした。そこで、思い切って一個1,000円を一個10,000円にしてみたら、簡単に売れてしまったと言う冗談のようなお話があります。そんなばかげた話であっても、現実にある話ですから、世の中とは不思議なものです。
 金額の高い物が良い物で、金額の低い物は高い物と比べて劣る物と判断をしてしまいます。これとよく似たことで、職業や、会社での立場、肩書きでその人物を判断してしまうことがあります。江戸時代であれば、武士や、農民などの職業によって差別をした中で、世の中が構成されていました。武士は農民よりも偉い存在で、農民は武士の言うことを聞かなければならないとされていたわけです。
 上下の関係は絶対であるとされた制度を世の中に作っておけば、武士にとっては都合の良い世の中であったのでしょう。
 
 現代においても、こうした表面上の職業や肩書きで人を比較し、どちらが上か下かを判断してしまうことがあります。確かに集団をまとめたり、大きな事業を行う際には、必ず役割を決め、責任者を決めなければ集団は動きません。集団がある目的に向かって進むには、責任者が意見をまとめ引っ張っていかないと、その集団は自分勝手な方向を向き、まとまった形にはなりませんから、その集団のなかには必ず、上下の関係が必要となるからです。

 人は必ず比較して生きています。自分を中心に比較するときもあれば、他人と他人を比較することもあります。しかし、その比較の基準が職業や肩書きだけで判断をし、これが絶対的な上下関係であると思って良いのでしょうか。江戸時代の士農工商という絶対的な身分制度の中で、中江藤樹は「この世の中には、天子様、諸大名、学者、武士、そして民。5つの身分がある。身分の差は、確かにある。だが人間としての価値の差は、全く差がないのだ」と言っています。武士ならば国のことを考え、もし民に危険が迫ったときは、体を張って民を守る。そのために普段から訓練をし、その覚悟が見えるのであれば、民は武士に対して一目を置き、素直に言うこと聞く事が出来るのでしょう。

 肩書きはその役割を果たすために必要なものです。組織の中で上役になったときは、その役割を果たすため、自分の事を第1とせず、その集団の為にこそ励まなければなりません。身分にすがり、その役割も果たさず、その身分の差を人間としての価値の差だと勘違いした行動をとれば、その人の命令に従う人はいなくなり、その組織自体が何の価値も無いことになってしまうことでしょう。
 組織の中で与えられた肩書きは、決して絶対的な権限でもなければ、名誉でもありません。その組織のビジョンを描き、向かっていく先の先頭に立つ事を許されただけです。ですから、ビジョンも描かず、ましてや責任を取る覚悟のない者について行く人は1人もいないでしょう。与えられた役割を自覚し、行動する事こそが大切であり、人間的な価値を見いだすことが出来るのです。