鶏を割くに牛刀を用いん
                                                              平成29年2月25日

 論語は、今から約2500年前に孔子とその弟子達の間で起きた出来事が書かれた書物です。2500年前と言いますと、日本は縄文時代の頃の書物となります。
 孔子の教えは、日本にも大きく影響を与えた訳ですが、そんな教えが今でもことわざとして身近に感じられる物も多く有るのではないでしょうか。
 しかし、ことわざも長い年月の間に、いつの間にか意味が変わって伝わってしまっているものもあるようです。
 孔子の弟子に子游と言う方がいました。子游(しゆう)は大変優秀な方で、弟子の中でも最も優れた十人である孔門十哲のひとりだそうです。そんな子游が武城(ぶじょう)という小さな村の代官となって、その村を統治するときのお話です。

 孔子が代官として勤めている子游に会いに、武城へ行きますと、美しい音楽と歌声が聞こえてきました。孔子は弟子達に、人にものを教えるときには、礼儀と音楽を重んじることが大切だと常日頃話してましたから、当然子游もこの教えを守っていました。その音楽と歌声を聞いた孔子は、にっこりと笑って言いました。「鶏をさばくのに、どうして牛をさばく大きな包丁をつかうのか」と。鶏を料理に使うのに、わざわざ牛のような大きな動物をさばくのに使う刀を持ち出すように、小さなことを処理するために、大人物を用いたり大げさな手段を取る必要はないと言ったのです。
 これを鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん(にわとりをさくに いずくんぞ ぎゅうとうをもちいん)と言います。現代のことわざとして、「なんでもかんでも大げさにする必要はない」場合の例えとしてこのことわざが残っています。

 しかし、このことわざには続きのお話がありました。
 孔子が子游に対して「鶏をさばくのに、どうして牛をさばく大きな包丁をつかうのか」と問いかけると、子游は答えてこう申し上げた。「昔、先生からこのような話をお聞きしました。『上に立つ者が道を学ぶとよく人を愛し、民衆が道を学ぶとよく治まる、とうけたまわりましたが……。』」先生の教えの通り、「全力で人を育てる事が大切だと受け止めていました。」と反論したのです。これを聞いた孔子は「諸君、子游の言う通りだ。さっきの言葉はただの戯れだ」と子游に謝ったお話なのです
 大袈裟にする必要は無いよと言っていたはずが、それは冗談で全力で行うことが大切だと言っているのですから、大変面白いですね。

 孔子の教えは様々なところに影響を与えています。しかし最も大切にしなければならないことは、その場に応じた対応が必要だとも言っています。今回のお話でも、どちらが大切と言う事では無く、村を平和で豊かにするためには、何が大切であるかを考えそして行動していく事こそが一番大切なのです。