拡大と成長
                                                              平成26年7月25日

 戦国時代の日本は小さな国の集まりでした。戦国時代だからと言って、常に戦があったわけではありませんでしたが、隣り合う国同士に問題が生じたときには刀を抜いて戦った時代だったようです。
 それぞれの国は、その中で暮らす人達の生活を支えなければいけません。そのため、その国の中で足りなくなったものがあれば、隣の国から分けてもらうしかない。しかしそう簡単に分けてくれるわけがありませんから、どうしてもそこにいざこざが出てくる。それを繰り返すうちに、ケンカとなり、そして戦となるのです。
 こんな時代の国々を、次々と飲み込んでいき、短期間で一つにまとめようとした織田信長は、明智光秀の謀反によってその夢を奪われます。そして、その後を上手に引き継いだのが豊臣秀吉でしたが、国を興すことばかり目を向けていましたから、無理な朝鮮出兵を繰り返し、信長と同じように拡大路線に走った結果、豊臣家は一代で幕を閉じるのです。拡大路線を重視した国の舵取りはバブル経済と同じです。一気に拡大路線をたどりますと、どこか無理をしていますから破裂してしまうのです。
 しかし、この後を治めた徳川家康は、国を興すこと以上に守る事を大切にしました。 徳川家康は、日本を治めるに当たって、武をもって天下を取り、文をもって治めたと言われています。「武士は人の鏡」とし、道徳教育を徹底する事により、人の道を教え、無闇に人を傷つけたりしないようにしたのです。つまり、人としての心を育てた者に給料を払う仕組みにしたのです。これにより、現状の田畑でも効率を上げる用に工夫する力が生まれ、同じ面積でも多くの作物を育てる能力を身につけました。また土地柄によってはとれる作物が違い、同じ作物であっても、収穫できる時期が違うものですから、平和的に国と国との交流を行えれば、作物を効率的に増やすことが出来るようになったのです。戦による拡大をせず、人間力を育てることによる成長を選んだわけです。

 織田信長のやり方を企業に例えるならば、その企業の力を超えて金融機関からお金を借りて経営をし、無理がたたって、泡の様に消えてしまいました。泡として膨らむ様子が、企業が成長していると勘違いをしてしまったのです。また、豊臣秀吉のやり方は、M&Aを利用して信長から上手に乗っ取り、他の国々も同じようにM&Aによって話術とお金で合併を繰り返して企業を拡大させました。しかし、日本の中に取り込む企業がなくなりますと、海外へと手を伸ばすのですが、海外では同じ方法が通用せず、結果的には一代で経営破綻してしまうのです。この事からしても、企業の売上、職員の数、店舗数などを増やすことが、企業の成長では無いと言えるのです。
 この様子を見ていた徳川家康は、成長とは何かと考え、人間の教育に力を注ぎます。現状を理解し、考え、そして知恵を出して効率を上げる。毎年1%ずつでも良いから売上を増やす。焦らず、その人の成長に合わせて少しずつ売上を増やす。これを繰り返すことが成長であるとしたのです。

 企業経営は成長を続けなければなりません。しかし拡大ではすぐに終わりが来てしまいます。どこに主眼を置くかは経営者しだいなのです。