おやじの弁当

                                        平成21年2月25日
                                                           
 先日読んだ雑誌の中にこんな話がありました。

 

 100年に一度と言われる世界的な不景気と報道されているが、約70年前の日本では度重なる戦争と世界恐慌を経験してきた。その昔、我が国は今の若者達が考え及ばないほど貧乏であった。
 ある日、母の作る父の弁当を間違えて持って行ってしまった。
「おやじの弁当は軽く、俺の弁当は重かった。おやじの弁当はご飯が半分で、自分のにはいっぱいはいっており、親父の弁当のおかずは味噌がご飯の上にのせてあっただけなのに、自分のにはめざしが入っていた事を、間違えてはじめて知った。
 父子の弁当の内容を一番よく知っている両親は一切黙して語らず。肉体労働をしている親が子供の分量の半分でおかずのない弁当を持ってゆく。これを知った瞬間、『子を思う親の真の愛情』が分かり、胸につまり、その弁当すら食べられなかった。
 その感動の涙が勉学の決意になり、涙しながら両親の期待を裏切るまいと心に誓った」
 それに引き換え、戦後の私権の主張のみに急な世相の中では、「お父さんの弁当の中身は少ないが、お前のはちゃんとした弁当だから頑張れ」などと発言しがちであるが、それでは「恩、愛情の押し売りはごめんだ」と生意気な子供の言葉がはね返ってくるのがオチであろう。

 

 日本には昔からすばらしい哲学が存在し、それを教え伝えていく教育がありました。戦前は知育、徳育、体育を勉強してきたそうですが、第二次世界大戦後、日本の教育は知育について重視するようになり、特に徳育については教えることが出来ない先生が増えてきたそうです。「徳を得る」が「得を得る」に変わってしまったのです。

 

 私も小さな事務所の経営者であり、また一児の親でもあります。子は親の鏡と言われます。子供に、努力するように口で言うだけでなく、黙って自分のやる姿を見せてやるように心がけております。また、企業においても従業員は経営者の鏡であり。自分が暗い顔をしているとそのままが写り、逆にどんなに辛いときでもやる気に満ちた顔をしていれば、子供や従業員にもそれが写るのではないでしょうか。